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ホノルルの歴史-28地区

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ホノルルにおいて地理的に極めて重要なポイント、それは港です。ホノルルに町が形成される1000年も前から、オアフ島では島全土にハワイ先住民が暮らしていました。しかし、人々が住むコミュニティは広範囲わたり、アリイ(首長)が滞在する場所が変わる度にコミュニティの中心も移るという仕組みでした。

1793年、毛皮と銃の貿易船船長ウイリアムブラウンが大型船を停泊させるのに十分な深さのあるホノルル港に目を付けたことでこの状況は一変します。港付近はホノルルへの寄港数が増える捕鯨船や貿易船相手に商売をする商店などで瞬く間に栄えます。そして、その周辺地区には商売を営む人々の家が立ち並びます。都市が誕生したのです。

1800年代後半になるとホノルル港の主要産業は捕鯨からサトウキビやパイナップルの生産へと移行します。プランテーションでの労働力としてアジアやヨーロッパから男たちが、続いて女たちがこの港から島へやって来ます。多くの労働者たちはプランテーションでの契約期間を終えると新たな雇用を求めてホノルルの街へ出ていき、起業するものも出てきます。

1920年代前半になると、プランテーション産業に観光産業が加わり物資が積み下ろしされる桟橋のそばにクルーズ船が見られるようになります。船の積み荷に変化はあれど経済効果に変わりはありません。20世紀の終わりにはプランテーション産業が衰退し、いよいよホノルルの準備が完了します。

ホノルル各地の歴史

アイナハイナ

アイナハイナの名前には諸説あります。ハワイ語で「犠牲、ささげもの」という意味の「ハイナ」に由来しているという説があります。かつて生け贄を捧げたと言われる谷の奥深くの古代カワウオハヘイアウの存在がその説に信ぴょう性を与えます。

より知られているのは、ハワイ語「ハイナ」には英語「ハインド(Hind)」の意味もあることからこれに由来する説です。ハインドはこの地区に多くの土地を所有したオーナーの名前で、ここにあった酪農場の名前にもなっていました。アイナハイナ=ハインドの土地、と訳すことができます。

ロバートハインドは1924年、この土地にハインド・クラーク農場を開業し、事業は1946年まで続けられました。1938年ロバートの死後、家族が事業を引き継ぎましたが最終的には1940年代後半に売却されました。

アイナハイナビーチ

カワイクイはただ単にアイナハイナビーチの東にある公園の名前というわけではありあせん。古代ハワイアンが両地区を含むエリアをカワイクイと呼んでいました。カワイクイは「一体化した水」と訳されます。その名前は、ここから湧いて出る新鮮な水を求めてローカルやそうでない人も含め多くの人々がこの地を訪れたことに起因すると信じる人もいます。また、この地で真水と海水が混ざり合う、つまり一体化することからこの名が付いたという話もあります。

20世紀にロバートハインドがアイナハイナの広大な土地を買い占めるまでは、数百年もの間この地には漁師以外はあまり人が住んでいませんでした。彼の酪農場はホノルルでは有名で牛乳をはじめ酪農製品を町へ供給していました。

度重なる不運と1946年の津波による被害から、ハインド一族は酪農事業を売却し保有していた不動産の開発に舵を切ることになります。タイミング良く第二次世界大戦後の空前の住宅需要高の時期でした。

当時ほとんど何もなかった美しいオーシャンフロントの土地にこの時初めて家が建ち、アイナハイナビーチの住宅地となります。

アラモアナ

アラモアナのコンドミニアムがショッピングセンターの上にそびえ立つ以前、ここは今とは全く異なる様相でした。「カリア」という別の名前で呼ばれていたというだけでなく、タロイモ畑が点在する沼地でした。数百年にわたり主に漁師が住む町でした。

1912年、ウォルターディリングハムが所有するハワイアンドレッジング社がオアフ島内の工事で出た珊瑚や砂、土を埋めるためこの土地を買収します。これにより沼地や池のほとんどが埋め立てられ、地盤の固い土地ができていきます。その多くは現在のアラモアナパークとなっています。1934年、ルーズベルト大統領によりこのエリアを公園にすることが正式に決められます。

その後2030年ほどは小さな一軒家の多くなりましたが、地区と呼べるほどの規模ではありませんでした。低層ビルが低密度で散らばっているエリアでした。ところがアラモアナセンターの登場で状況は大きく変化します。

早くも1948年にはウォルターの息子であるローウェルディリングハムが構想を練り始め、1957年までにはハワイアンドレッジングにより何もなかった土地に建設が始まります。アラモアナセンターは、ハワイ諸島がハワイ州となった1959年に完成し、大々的にオープンします。センター完成による周辺への影響はすぐに出始めます。

ブラックポイント

ブラックポイントの土地もその他のハワイの万物と同様に火山の噴火の結果その命が始まっています。ブラックポイントは有名なダイヤモンドヘッドのすぐ下に位置するも、同時期に起きたダイヤモンドヘッドとは別の噴火により形成されました。

形成された土地は黒い溶岩が海に向かって傾斜していることから、今日知られる名前が付けられました。しかし、傾斜面に絶え間なく波が打ち付ける様子から古代ハワイアンは「荒れた海」という意味のクピキピキオと呼んでいました。

1910年、アメリカ陸軍がオアフ島攻撃に対する防衛策の一環として小さな砲兵隊をここに設置します。その目的は夜襲に備えたサーチライト部隊の護衛とその他の援護でした。軍の防衛戦略の方針転換に伴い、砲兵隊は長くはとどまりませんでした。

ブラックポイントに一軒家が建ち始めたのは1920年代前半で、当初から高級住宅が建設されていました。そのオーシャンビューと外部の世界から隔絶されたプライベート感が富裕層や有名人からの人気を集めます。最も著名なのは、ドリスデュークがこの地に建てた建築とデザインの偉業を誇るシャングリラエステイトです。今日も人々を魅了するシャングリラは現在美術館になっています。

デュークカハナモク、トムセレックなど名だたる有名人がここに居を構えてきました。ニュースのコラム欄に有名人のハワイ滞在が取りざたされる際は、プライバシーとラグジュアリーを兼ね備えたブラックポイントに滞在していると報道されることがほとんどです。最近ではジョニーデップがここで休暇を過ごしたことが報道されました。

ダイヤモンドヘッド

ダイヤモンドヘッドは太古からさまざまな意味で神聖な場所とされてきました。かつてハワイアンは、ダイヤモンドヘッドがキハダマグロの頭の形をしていることからペレの姉妹であるヒアカがプウレアヒと名付けた、と信じていました。

ハワイアンの司祭達は、後に北西側の斜面にパパエナエナヘイアウと呼ばれる神殿を建設しました。儀式の際に焚かれた火は遠くからも見ることができました。カメハメハがハワイ統一を決定づけたヌウアヌの戦いでオアフ島の首長キアナを倒した後に生け贄としたのがこのヘイアウです。新たな王の統治を示す意味でキアナの頭がこの地に置かれました。

1856年、カプ制度の解体とキリスト教の布教に伴いヘイアウも取り壊されてしまいました。しかし、この地の重要性が変わることはありませんでした。1900年代前半、裕福なカマアイナ(地元出身者)がダイヤモンドヘッド地区に住宅を建設し始めます。中でも最も裕福かつ権力者であるウォルターディリングハムは、パパエナエナのあったまさにその土地にかの有名なラピエトラエステイトを建設します。変化が訪れたのです。

ダイヤモンドヘッドの不動産に高級住宅時代が到来し、以後、後戻りすることはありませんでした。ダイヤモンドヘッドのクレーター内に迎撃軍事施設が設置された2度の世界大戦を経てもなお富裕階級は不動産建設を続けました。通りから隠れたこの地は以前もそして現在もその豪華さと美しさで広く知られています。戦時中の攻撃の脅威をもってもバイヤーを締め出すことができなかったのはダイヤモンドヘッドの魅力故です。

ダウンタウン

早くも11世紀には最初のホノルルの住人ポリネシア人が居を構えます。地元の統治をめぐる首長たちの紛争に中断を余儀なくされながらも何代にもわたり農業を営んでいました。ところが、1794年にヨーロッパから最初の船が到着するとホノルル港は海外の船が寄港するにぎやかな港へと変貌します。

1800年初頭、確固とした都市構造や都市計画がありませんでした。古い地権制度は経済活動の拡大の基盤として適切ではないと感じるものもいました。商人たちが土地私有を求めるようになると、アリイの意向に沿って土地の利用方法が決定されるハワイアンの考え方は次第に非難を浴びるようになります。

このような圧力のもと、1844年に聞き取り調査と土地の払い下げを行うため行政委員会が設置されます。組織的に道が敷かれ、区画整理が行われ、ホノルルのダウンタウンが形作られていきます。

1845年にホノルルがハワイの首都となると港周辺地区はさらに急速な発展を遂げます。特にダウンタウンのフォートストリート周辺はオアフ島初のショッピングエリアとして栄えます。その繁栄は1960年代のアラモアナセンター開業まで続きます。

第二次世界大戦終結までに人口増加は加速し、ハワイがアメリカの州となると商業施設や居住施設には巨大化の波が訪れます。ビジネススペースや新たな土地利用規制整備の需要が高まったことで、ニミッツハイウェイやベレターニアストリートの山側などを中心に現在のダウンタウンにあるコンドミニアム群が形成されます。

19世紀は人口の密集により引き続きホノルルダウンタウンのコンドミニアムの需要は高く、オアフ島のみならずハワイ全土を管轄するビジネスや政府のオフィスが集まるウォーターフロントを臨む地区にコンドミニアムが建ち並びました。。

ハワイカイ

ハワイカイ不動産の歴史はヘンリーカイザー始まりヘンリーカイザーに終わると言ってよいでしょう。だたし、すべてではありませんが・・・。

この地に最も早く入植してきたのは、947年頃で部族闘争から逃れてきたマルケサス諸島のポリネシア人とされています。その後は数世紀にわたり、オアフ島のこの地域は非常に静かでした。1800年代に入ってもしばらくは漁業が主な生活の営みでした。

1848年のグレートマヘレ法(土地分配法)により、ハワイカイの土地はすべてバーニスパウアヒビショップ王女一族の所有となります。王女の死後1884年、地権はビショップトラストに譲渡されます。

1900年に牛の放牧場が創業し、陸上の主要産業となります。数十年にわたり地元経済の原動力でしたが、ある日突如として終わりを迎えます。1946年、津波がこの地区を襲い、家、畜舎、牧場などその進路にあるものすべてを飲み込んでしまいました。

生き残った家も放棄され土地は沼地となってしまいます。以後15年にわたり、ハワイカイは強烈な臭いがする場所として知られ、ダウンタウンからのラッキーズタバーンという名の人気スポットに車で向かう途中に通り過ぎるだけの場所でした。

1961年、ヘンリーカイザーがビショップステイトからこの土地を借り受けて開拓を始め、今日のカラニアナオレハイウェイに向かう途中に目にするような姿になります。マリーナは掘り起こされ、ハワイカイの新たな不動産が値を上げ、ショッピングモールが開業し、かつての荒れ地が魅力的なウォーターフロントに生まれ変わります。

ひとつだけ変わっていないことは、ハワイカイが最高の釣りスポットだということです!

ハワイロアリッジ

売りに出された物件はすぐに買い手がつく人気地区ですが、ここに至るまでは時間がかかりました。ハワイロアリッジの一軒家の話はカメハメハ一世と彼がアレキサンダーアダムスに贈った広大なこの地から始まります。この土地はハワイ海軍司令官としてのアダムスの活躍が評価され贈られたものでした。

1900年代初頭までは、この地への行き来が困難であったためほとんど何も建っていませんでした。1930年代にアダムスの子孫が建てた数軒の住宅のうち一つは現存し、しかもアダムスの一族が今日も所有しています。

1950年代には人口増加に伴い周辺地区は開発時代を迎えますが、ハワイロアリッジは1970年代まで建設業者の目に留まることはありませんでした。山の尾根までの道路整備が楽観的に始められましたが、多大な建設費用がかかることが判明し、計画は突然中止されてしまいます。

80年代に新たな開発業者エイチエムエフ社が再開発に着手しますが、金利の二桁上昇や市場の弱体に見舞われ、開発はまたもとん挫してしまいます。計画は白紙に戻ったかのように思われ、ハワイロアリッジの一軒家を購入したバイヤー達は周りの空き地の中にぽつんと建つ我が家を眺めるほかありませんでした。

ところが、エイチエムエフ社は苦境から抜け出してきます。ハワイ市場がようやく回復し、現在では美しい眺望と満たされた静けさを兼ね備えた高級住宅街として知られています。時に、素晴らしい生活を手にするには、大変な努力を要するのかもしれません。

カハラ

カメハメハ大王がハワイ諸島統一を成し遂げることとなった最も有名なオアフ島攻撃作戦の際には多くのカヌーがカハラから上陸しました。同1795年には、カハラにハワイ先住民の入植がはじまり最初のコミュニティが形成されます。

1800年代には農業も行われましたが、主には畜産が主な産業でした。1848年のグレートマヘレ土地分配法の施行によりカハラの地はすべてバーニスパウアヒビショップ王女の土地となります。王女の死後、カハラの土地はビショップエステイトトラストに譲渡され、現在もその多くをトラストが所有しています。

近代のカハラの不動産は第一次世界大戦後の上流階級の「発見」の産物です。池は埋め立てられ、農場は閉鎖され、ビーチフロントに豪邸が建ち始めます。カハラはオアフ島には珍しく土地が平らで、これは魅力の一つと言えます。

これまでカハラ地区の住宅はカマアイナと深く関係のある人々が住民となってきましたが、それでもなおこの地区で万事を統制するのは難しい状況です。1960年代前半のカハラヒルトン建設の際には多くの著名人を含む住民らが激しく反対しました。しかし、計画委員会の提言や市長の反対があったにも関わらず、市議会では提出された区画整理法案が可決されてしまいました。

カハラ地区が短期間で勝利した出来事と言えば、すでに彼らの住宅が建っている土地をビショップエステイトから買い取ったことでしょう。198611月に最後の区画が借地不動産権から単純不動産権に変更されました。現在のカハラの住宅で単純不動産権付物件があるのはこの絶好の機会があったからこそなのです。

結局のところは、カハラの地はシンデレラストーリーということです。かつて養豚農家が多数を占めていたこの土地がわずか数十年で世界の富豪や著名人のプレイグランドと化したのです。大躍進というわけです。

カイナニ

ハワイ不動産の歴史と戦いを学ぶ者の多くはカイナニが最大の紛争地帯であったことは忘れがちです。争いは、閑静な高級住宅街カハラにホテル建設計画が持ち上がったことに端を発します。裕福な住人達にとってこれはまさに敵の侵攻に他なりません。戦いの準備はできていました。特別委員会は計画破棄を提言し、市長はいかなる方策にも拒否権を行使する準備を進め、住民は勝利を手にしたかに思われましたが、そうではありませんでした。市議会が、建設計画に必要な区画整理を可決し、市長の拒否権を却下してしまいました。

さらに、当時カハラ全土を所有していたビショップエステイトは、まるで傷口に塩を塗るかのように現在リゾートが建っているオーシャンフロントの物件を含む土地をワイアラエゴルフコースから引き揚げます。これで終わりではありません。

ワイアラエゴルフコース新しいレイアウトに沿うよう再構成されます。また売買交渉の際、南東側土地の一部を手放すことになりました。家が30件は建つほどの広さでした。

現在はフェアウェイとオーシャンビューを臨むその土地にカイナニの一軒家が建っています。そのうちのいくつかはオーシャンフロントもあります。舗装された道路と美しいカイナニの一軒家がある土地は旧ワイアラエゴルフコースの6番、7番ホールだったのです。

カイムキ

古代ハワイアンの伝説には、一夜にして巨大なものを作ったとされる小人族メネフネの話が多く残されています。オアフ島のこの地区は、メネフネがティという植物を調理するオーブンを作ったとされる場所で、このティのオーブンがハワイ語でカイムキと訳されることからその名が付けられました。

1887年にダニエルアイゼンバーグという男がこの地に牛牧場を開くまで、この丘陵地は手つかずの状態でした。アイゼンバーグは、この牧場でカラカウア王が非常に好んだとされるカピオラニパーク競馬場の競走馬も飼育していました。

カイムキが住宅地になるきっかけとなったのが1900年に起きたチャイナタウンの大火でした。この火事により多くの中国人が家を失い、新たな出発を求めてカイムキに移り住んできました。これがホノルル初の大規模分譲となりました。その後もさらに人々が移住してきます。

1920年代の路面電車の路線延長によりカイムキの一軒家は更なる成長を遂げます。交通機関が充実し、ダウンタウンで働く人は遠いカイムキからでも通勤が可能になります。人々が土地を購入し、この地に定住したことで二度目の人口増加の波が訪れました。

大通りのワイアラエアベニュー沿いにはローカルの店やレストランが並び小さな町の雰囲気が守られています。1900年代初頭に移り住んできた移住者の子孫が住む魅力的な家々、そこに並んで建つローカルの店が訪れる人を楽しませてくれる、カイムキはそんな町です。

カカアコ

カカアコ地区は、かつての住人にはもはや認識できないほど近代化の真只中です。現在次々と開発されているカカアコのコンドミニアム地区は、かつてハワイ先住民が棚田を作っていた農村で、カメハメハ一世を含む王族達の住居がありました。

カカアコは、貿易や物資供給のためホノルルに入る外国船の寄港地でもありました。1850年、外国船の乗組員により天然痘が持ち込まれ、この感染症は近隣地区の人口を減少させるほどの威力でした。この頃、カカアコ地区は港周辺の経済活動により成長を遂げていたため、多くの人が集まり感染症拡大に恰好の条件だったわけです。この悲劇の犠牲者の遺骨がしばしば建設現場で発見されています。

1950年代まで復興を遂げてきたこの地区も、商業活動の規制緩和となる土地区画規制の変更に伴い住宅に代わって多くの事業者が増えました。特に自動車修理工場や製作作業工場が目立ちました。

そして再び、コンドミニアム建設によりカカアコの時代は変わります。しかし、コンドミニアムはこの地区の未来であると同時に、多くの人々にとってさまざまな意味でこの地が繁栄の原点だった時代に連れ戻してくれる存在でもあります。

カパフル

カパフルは「痩せた土壌」と訳されます。幸いにもこの名は活気あるこの地区を表す言葉として正しくありません。ハワイの土地が初めて個人に譲渡されたグレートマヘレ法施行の際、この地はルナリロ王に与えられました。

早くは1889年に私邸があったとの記録が残されていますが、1920年代に街に通勤する人も利用した路面電車が建設されるまではほとんど開発もされず手つかずの状態でした。開発が始まって以降は、ダウンタウンの人口密集を避けて比較的安価なこの地にとりわけ日系人が集まっていました。

都市計画などないまま開発されたために住宅の建築様式が多岐にわたり各オーナーの趣向が反映されています。カパフルの住宅は今日ではもはや歴史的建造物となっています。ハワイ大学歴史学部は、アールデコ、モダン、チューダー、ミッション、プランテーションに至るまでここにあるすべての建築様式を記録にまとめました。カパフルの一軒家の販売一覧を見ると、建築様式別にリストアップされていることがよくあります。

ワイキキの隣というロケーションでありながら、カパフルはローカルのアイデンティティと歴史を守ってきました。レインボードライブイン、オノハワイアンフーズ、レナーズベーカリーの3軒は世代を超えて地元の人に愛されるカパフルの名店です。また住宅やビルなどもカパフルアベニューのエヴァ(西)側にある数軒のコンドミニアムを除けば低層建築物ばかりです。

本物のシェイブアイスがあったり、サーフボードの修理に出したり、世間話をしたりとオールドハワイの生活がここに残されています。

マキキ

マキキ地区には、ホノルルの上流階級とプランテーションでの労働を終え新しい生活を求めて移住してきた下層階級が絡み合う興味深い歴史があります。1900年代にプランテーションでの就労契約を終えた日系、中国系、及びその他の労働者達が起業やより賃金のいい雇用機会を求めてマノアとダウンタウンの間に位置する2マイルほどのこの地域に移住てくるまではコミュニティは確立されていませんでした。だたし、ここはこのような階段を駆け上ろうとする人だけが集まる場所ではありませんでした。

同じ地区には、1841年以来ハワイ政財界エリートの子弟が多く通う教育機関プナホウスクールがあります。生徒の大半はこの周辺に住んでいました。そのため、マキキの住宅街には様々な階級の人々が隣り合って住んでおり、ホノルルではこのような地区はほとんど見られませんでした。

今日でもマキキのプランテーション様式の一軒家群には異なる階級の住人が共生した名残が見られ、スクールストリート沿いには小さな家族経営の店などが並んでいます。オバマ大統領はこの地区の出身でプノホウスクールに通っていましたが、裕福な家庭の出身ではありませんでした。オバマ大統領こそまさにマキキらしい経歴の持ち主です。

マノア

古代ハワイの時代、マノアの土地はアリイと一般人で厳しく分けられていました。谷の上とプノホウの上にあるふたつの丘が両者の境界とされていました。おもしろいことに、アリイの土地から出たごみが定期的に一般人の住む土地に持ち込まれ、ひそかに埋められていました。

ほぼ毎日雨が降ることから、この谷は早い時期から農業が盛んでした。1800年代、ハワイアンにより多くの農作物が栽培され、この地がハワイ諸島で最初のさとうきびとコーヒーのプランテーションとなりました。

一貫した涼しい気候から王族の静養地としても珍重されました。カメハメハ王一世の妻カアフマヌ王女がこよなく愛した屋敷がマノアにありました。王女は余生が残りわずかであることを悟るとマノアの屋敷で最後の日々を過ごすことを熱望しました。

近代では1920年代にホノルルの路面電車がこの地に乗り入れるまで特に変化はありませんでした。公共交通機関の乗り入れで利便性が高まったことからミッドパシフィックスクールこの地をキャンパスに選び、現在でもこの場所にあります。これに追随するかたちで、これまで農地と空き地だったこの地にマノアの不動産が建ち人々が移住してきました。

マノアは爽やかな風と雨がもたらす豊かな緑で知られています。コーヒー農園やサトウキビ畑はこの地から姿を消してしまいましたが、アリイを魅了した谷の美しさは衰えることを知りません。

ニウビーチ

ニウビーチの不動産の周辺の土地は、カメハメハ王がスコットランド人のアレキサンダーアダムスに与えたものです。アダムスのハワイ海軍司令官としての功労を評価するものでした。王もまたこの土地の海のそばに夏の別荘を構えており、特別な計いであることは明確でした。

アダムスはこの土地の支配権のみならず、土地に接す海での漁業権も手にします。ニウ地区ではハワイ先住民が安定した食料源確保のためにフィッシュポンドを建設していたためここでの漁業権は極めて重要でした。

ここには海へと繋がるクパパフィッシュポンドがあり、オアフ島のこの地域では最大規模のフィッシュポンドでした。海岸沿いに作られ三方に壁を施してありました。数百年にわたり大切に手入れされながら使用され、20世紀前半まで続きましたが、近代化と別の新たな食料源獲得手段が発達したことによりフィッシュポンドの重要性が低下していきました。

1950年代、アダムスの子孫がフィッシュポンドの埋め立てを決意し、ハワイアンドレッジングがその工事を請け負いました。埋め立てられた土地で一時的に小規模農業が行われたこともありましたが、常にこの地を住宅開発に利用する意向は尽きませんでした。

ニウビーチに住宅が建ち始めるまでにはそう時間はかかりませんでした。カメハメハ大王が自らの保養地にこの地を選んだのも無理はありません。ニウビーチに一軒家を所有することは文字通り王にふさわしい場所に住むことと言えるでしょう。

ニウバレー

今日のニウバレーの不動産の多くはたった一人の男アレキサンダーアダムスから始まっています。スコットランドの船乗りだった彼は1810年頃ハワイに到着し、すぐに時の王であるカメハメハ一世と意気投合します。王はアダムスの優れた海洋知識を認め、直ちに王国海軍の司令官に任命します。

この任命と共にアダムスはニウバレーにある2,000エイカーの土地を住まい及び農場として与えられます。その後140年にわたりニウバレーは広大な耕作地となり、1900年代前半には大規模酪農場となりました。

1950年代になりホノルルに戦後の人口増加期が訪れると、アダムスの孫娘がこの土地を分割し売却することを決心します。時代が移り変わる中で池は埋め立てられ、酪農場は閉鎖されます。住宅の需要が高まると同時に、利益の上がらない酪農場は必要とされなくなったのです。

谷にもかつて古代ハワイアンのフィッシュポンドがあったオーシャンフロントの土地にも瞬く間に住宅が建っていきました。現在、アダムスの土地は心温かく結束の強いコミュニティとなり、アダムスがこの地に初めて足を踏み入れた時と変わらぬ美しく緑豊かなコオラウ山脈に見守られています。

パシフィックハイツ

パシフィックハイツの不動産1899年にチャールズデスキーという名の大胆不敵な男により最初に開発されました。新聞各紙は、デスキーがチャールズブースから購入した手つかずの450エイカーの土地で直ちに住宅建設を開始する、と報道しました。

デスキーは、土地の販売促進のためにホノルルダウンタウンからパシフィックハイツのダンスパビリオンがあった標高900フィートの場所まで、ハワイ初の電気鉄道を創業します。これは購入を検討するバイヤー達に将来のマイホームから見る景色を体験してもらうためでした。

ところが、あいにくデスキーはあまり商売上手ではありませんでした。元の土地所有者であるチャールズブースが1903年に担保権を行使した際には、ほとんど住宅は建っていませんでした。2年もの間ローンが支払われていなかったようなのです。デスキーが不動産譲渡の登記を行っていなかったため、この一連の過程で複数のバイヤーが物件を失ってしましました。デスキーは賢明にも街を出て中国上海に行ってしまいました。

ホノルル政府が山の中腹にあるこの地区の水道整備を引き継ぎ、自動車が普及する1921年まで、パシフィックハイツの開発は始まりませんでした。ようやく20年後に、デスキーの描いた上流階級コミュニティが現実のものとなります。この地の良さが富裕層に知れると、たちまち巨大な邸宅が建ち並びました。

住宅価値は標高が高くなるほど上昇し、有力者や成功者がこの高台に住んでいます。チャールズデスキーは今頃「だから俺が言ったとおりだろ」と言っていることでしょう。

パイコラグーン

アゾレス諸島のピコ島の貧しいポルトガル人家庭に生まれたマヌエラデピコの人生は決して恵まれたスタートではありませんでした。1840年代に当時働いていた捕鯨船からハワイに逃げ出します。それ以前の彼の人生についてはよく分かっていません。

彼は新たに見つけた安住の地を愛するがあまり重大な変化を起こします。ある時点で名字をよりハワイアンらしく聞こえるパイコに改名します。

強い意志をもって大変な努力を重ねたパイコは、オアフ島にて牛の飼育で成功を収めます。その結果手に入れたものの中にダイヤモンドヘッドの先の400エイカーの土地があります。ここに自らの家を建て暮らしていました。

1980年にマヌエルが亡くなってからもパイコ一族はここに暮らし続け、この地のラグーンと近隣の道路にパイコの名前が付けられました。パイコ家最後のジョセフジュニアには子供がいなかったため、1947年彼の死によりパイコ家の広大な土地所有に終止符が打たれます。

ジョセフの死後、ホノルルの住宅建設ブームの最中にパイコラグーンリアルエステイトが開業します。プライバシーが約束された美しい自然とオーシャンビューを持ち合わせた不動産はリアルパラダイスを探し求める富裕層バイヤーを魅了します。各住宅地では人気建築家ウラジミールオッシポフ設計の住宅があることを自慢のネタにしますが、オッシポフ自身の自宅があることを自慢できるのはこのパイコラグーンだけです。

パイコラグーンの一軒家は売りに出されることがまれで、売りに出されとしても高額です。しかし、どんなに待たされても、高額を支払ってもその価値はあるでしょう。

ポートロック

この地区は古代ハワイアン秘伝の漁場でした。現在はクック船長の3度目にして最後の航海に同行したメンバーのひとりナサニエルポートロックに因んで名前が付けられた高級住宅地です。ポートロックは自らが船長となってハワイに戻り、マルナルアベイを航行した最初のヨーロッパ人となります。

彼は短い間島の住人と貿易を行いますが、この地区は真水不足のせいか人口があまり多くないと記録を残しています。

ポートロック地区はベイとダイヤモンドヘッドの両方の景色を楽しめることから最高級不動産です。ところが、ポートロックの住宅建設が始まったのは1940年代、1950年代になってからでした。その名が知れわたるようになったのは、開発後期にヘンリーカイザーがハワイにやって来てからのことです。

カイザーは現在のルトンハワイアンビレッジであるハワイアンビレッジを建設しただけでなく、今日のハワイカイをも開発した人物です。ポートロックにある彼の自宅もまた同様に注目の的でした。

自宅にはカイザー夫人を喜ばせるためピンクの豪邸、夫人の愛犬ピンクプードルたちのための楕円形ハウス2棟が建てられました。グリーンハウス(温室)には?そうピンクのバラが育てられていました。カイザー一族はここで頻繁に著名人を迎えては彼らを楽しませ、毎週のように新聞の社会面を賑わせていました。カイザー一族はもう住んでいませんが、ポートロック不動産の魅力は衰えることを知りません。その後も新たな有名人が住んでいました。

セントルイスハイツ

この地名が高台の下端にあるセントルイススクールから取ったことは言うまでもありません。この学校は1846年にハワイ王国のカトリック信者のために設立されました。卒業生にはジョンバーンズ州知事や最近ではモロカイ島のファーザーダミエンがいます。

1928年にホノルルダウンタウンから現在の場所にキャンパスが移されました。ビショップエステイトから山の中腹にある204エイカーの土地を購入し、そこにキャンパスを建てたばかりでなく住宅地として分譲することができるほどの広い土地でした。80エイカーが住宅地として売却され、その土地にセントルイスハイツの一軒家群が建ち始めます。周辺の道路には、バードラム、ユージーン、フェリックスなど学校創設時の長老メンバーの名前が付けられています。

真珠湾攻撃の際には学校施設が軍の病院やオフィスとして使用され、戦争の直接的な影響を受けました。政府は丘の中腹にあるこの地にさらなる建物を急遽建設し、第二次世界大戦中のセントルイスハイツ周辺はオアフ島で最もごった返した場所のひとつでした。当時はルーズベルト大統領が病院を慰問したほどです。

終戦に伴い軍が撤退し、住宅建設が加速します。セントルイスハイツの一軒家はその美しい眺望とダウンタウンやワイキキからの利便性が人々に好まれました。

今日、この静かなコミュニティがかつて太平洋での戦争に勝つべく大忙しであったことは想像もつきません。

タンタラス

コオラウ火山の噴石丘でできたタンタラスの山は、もともとハワイアンからプウオヒアと呼ばれていました。1840年代にプノホウスクールの校外学習がきっかけでその名前が変わります。シダを探していた男子学生達がギリシャ神話の中の人物にちなみここをタンタラスと呼ぶことにしました。どうゆうわけかその名が定着したのです。

険しい登山道や道路整備の遅れなどから、標高の高い地区の開発も遅れをとりました。1880年代、丘の斜面にようやく最初の家が建ちました。その後、他の住宅も建設されますが当初タンタラスに建てられた住宅は上流階級が標高の低い場所から夏の暑さをしのぐためにやってくる避暑地の別荘でした。

初期の道路は砂利を敷いて整備され、刑務作業を与えられたオアフ島の受刑者がこれを行いました。タンタラスからは人もうらやむ素晴らしい景色を見ることができましたが、最初の2030年は近代設備が整っていませんでした。

ホノルルの他の地区から遅れること30年、タンタラスに電気が通ったのは1920年代でした。水は雨水をタンクにためて生活水として使用していました。電話がある家は少なく、近所の家に電話を借りていました。このような状況で、コミュニティの結束は強くならざるを得ませんでした。

今でも、お互いの親密な関係は続いていますが、生活の不便さはもうありまあせん。今日、タンタラスの家を購入するにあたり、暑い気候を除いて諦めなけらればならないことは何ひとつありません。

ワイアラエゴルフコース

ワイアラエゴルフコースとロイヤルハワイアンホテルは1920年代に展開された富裕層顧客対象の観光促進キャンペーンのたまものです。ここの平な土地はもともとゴルフ場には適していませんでした。そこで伝説のデザイナー セスレイナーにコース設計を依頼します。今日ではレイナーの設計したコースに途方もない金額を支払ってまでゴルファー達が熱心にチャレンジしています。驚くことに、レイナーは4つの有名なゴルフコースを完成させるまで一度もコースに出てゴルフをしたことがありませんでした。

ゴルフ場の土地はビショップエステイトからのリースで、192721日に開業しました。ワイアラエを所有していたテリトリアルホテルカンパニーが世界恐慌の折に財政難に陥ると会社をマトソンカンパニーに譲渡します。

第二次世界大戦中は軍によりゴルフ場に沿岸防衛基地が設置されますが、ゴルフファンにとってはむしろその後の1960年代に最大の襲撃が訪れます。カハラヒルトンがビショップトラストに対しゴルフ場に賃貸していたオーシャンフロンのフェアウェイとその他の土地をゴルフ場から引き揚げるよう促します。

ゴルフ場が内陸に移設されて再構成された際にレイナーが設計したコースはすべて取り壊されてしまいました。ネット上のゴルフフォーラムでは50年以上たった今でも名コースを惜しむ声が聞かれます。とはいえ、ワイアラエゴルフコースの一軒家は快適で、フェアウェイの真上という立地を満喫することができます。歩いてすぐの場所にビーチがある素晴らしい立地が過去のいざこざなど吹き飛ばしてくれることでしょう。

ワイアラエイキ

ウィリウィリがとても美しく咲いていたことから、かつてこの尾根全体にウィリウィリヌイという名が付けられていました。頂上にある有名なトレイルは現在もその名を残し、その他のエリアは後にワイアラエスプリングにちなんでワイアラエイキと名付けられました。ワイアラエスプリングの湧き水は族長達だけが使用を許され、代々引き継がれる信頼のおける水守に管理されていました。1800年代までその存在は忘れられていましたが、カメハメハ三世が偶然この地区を通りかかりそこに居た老夫婦に水をもらえないかと求めたことがきっかけでその存在が認知されまます。カメハメハは、老夫婦が現在の水守であり、その役目が彼らの家系に永く受け継がれていたことに大変驚きました。彼らは王に水を献上する時が来た時のためにその湧き水を守っていたのでした。

この地区には若干数の住宅がありましたが、第二次世界大戦までは目立った動きはありませんでした。攻撃に備えてアメリカ軍が2隻空母からの砲塔を利用して尾根の高い地点にバッテリーウィリーを建てました。バッテリーウィリーはハワイ諸島への攻撃の脅威がなくなる1944年までこの地に残されていました。現在では、バンカーへのハイキングが人気を集めています。

それから20年後、ワイアラエイキの一軒家が山の斜面の麓から姿を見せ始めます。年月をかけて住宅や道路の建設が徐々に尾根の高地にまで広がり、1980年代にようやくゲート付きのラグジュアリー住宅地が地区の最高地に実現します。ここの住人は見事な景色を毎日堪能できるだけでなく、かの湧き水にも無料でアクセスできるのです。まるで王族気分です。

ワイアラエヌイ

高地に建てられた多くのホノルルの一軒家と同様に、ワイアラエヌイリッジもまた1900年代まではほとんど住居がありませんでした。自動車普及前の交通の不便さから高台には居住者がいませんでした。

当時、丘の麓の土地はほとんどが農地でした。タロイモ、サツマイモ、サトウキビ、タバコなどが栽培されました。

1950年代、近隣地区では開発が進み丘と海の間に広がる土地がほぼ埋まっていきました。そうなると開発は内陸の高台へと進みます。ワイアラエヌイリッジの不動産1950年代半ばには開発が始まりますが、それが高台におよぶのは1960年代になってからでした。ワイアラエヌイリッジの住宅のほとんどはこの時期に建てられたもので、その大部分は数多くの開発を手掛けるディベロッパー ハーバートケーホリタによるものです。

ホリタは、開発のいくつかの物件に高い評価を受けているウラジミールオッシポフの設計を取り入れます。そして、この間取りをその他の住宅にも採用しました。この手法によりワイアラエヌイリッジの一軒家は時を追うごとに需要が高まります。多くの住宅は20世紀中期の最高傑作とされています。

この開発の後、尾根の東側のさらに高台に若干の道路と住宅が新たに建設されました。これらの広く新しい住宅には歴史こそないものの、近代的でラグジュアリーなデザインと最高地からの素晴らしい景色があります。これ以上の景色を見るには山のさらに高いところまで長く暑い道のりを歩くしかありません。美しく快適な家からその景色が楽しめるならその必要はありませんね。

ワイキキ

今日のワイキキと呼ばれている場所は、数百年前までは沼地でした。この地は豊かな淡水が湧き出ることからハワイ先住民にとって優れた農業用地の可能性を秘めていました。15世紀、オアフ島の首長だったカラマクアがこの沼地を活用しようと灌漑用水の整備を行ったと言われています。その後、新しく作られたフィッシュポンドの周辺にタロイモ畑が作られました。

これらの畑は、3世紀後の1794年にカメハメハ大王の軍がオアフ島制圧のため上陸するまで活用されました。カメハメハ大王の勝利後ワイキキは王族の新たな静養地となり、カメハメハのみならず以後の王族達も静養地として利用しました。この地の美しいビーチと海はハワイ王朝最後のリリウオカラニ女王まで各時代の王族達に隠れ家として好まれ利用されました。

観光業の重要性が高まってきた1990年代前半にはビル建設のための頑丈な土地が求められるようになります。これにより、1928年ハワイアンドレッジング社によりアラワイ運河が掘られます。この運河建設により、必要とされていた新たな硬い土地が生まれました。

運河建設の数年後から、観光産業のための新しいビルが次々と建ち上がる様子を見られるようになります。この建設ラッシュは真珠湾攻撃まで減速することはありませんでした。真珠湾攻撃はワイキキをリゾートから軍事基地へと変貌させます。以後、第二次世界大戦終結までワイキキビーチには有刺鉄線が張られロイヤルハワイアンホテルは兵士の一時収容施設となっていました。

1950年代前半まではカラカウアアベニューやビーチ沿いの通りにまだ個人の邸宅がありました。それらも次第に観光用地へと取って代わられることになります。例外的に、1961年にカラカウアに登場したワイキキ初の高層コンドミニアムであるイリカイアパートメントビルディングは今日もコンドミニアムとして残っています。

1960年代後半、クヒオアベニューとアラワイブルバードの間が「ジャングル」と呼ばれるようになります。構造の悪化、混雑の状況、住民の多様化により悪評が広まります。

特に、地価上昇を考慮すると解決策が必要でした。この結果、木造建築の古い家が撤去され現在のワイキキに見るようなコンドミニアムへと移り変わっていきました。

カメハメハ上陸から200年の時を経た今、ワイキキはこの地を少しでも我がものにしようとする新たな征服者達により包囲されているといえるでしょう。我々は、彼らをワイキキコンドミニアムバイヤーと呼んでいます。

ワイルペビーチ

ワイルペビーチ地区はカラニアナオレハイウェイの海側に位置しています。オアフ島のその他の地区と同じように、ここはかつて古代ハワイアンのフィッシュポンドでした。だたし、ワイルペフィッシュポンドはふたつのユニークな点がありました。まず、全体で41エイカーと非常に広大であることです。現在のワイルペビーチ地区全体がかつてのフィッシュポンドの中に立っている状態です。

ふたつ目は、オアフ島のこのエリアにあったフィッシュポンドの中でワイルペフィッシュポンドは最後まで取り壊されずの残されていた点です。1946年の津波がなければ現在でも残されていたかもしれません。津波はフィッシュポンドを囲っていた壁を破壊し、その周辺に深刻な被害を与えました。近隣にあった酪農場は廃業し、フィッシュポンドを含む周辺の土地を所有していたオーナーは1947年にこの土地をウォルターディリングハムに売却します。

ハワイアンドレッジングを経営するディリングハムはこの地区の可能性を見出していました。ハワイアンドレッジンは現在半島のすぐそばにある運河を掘り、その土でフィッシュポンドを埋め立てました。当時、オアフ島東岸にはハワイアンのフィッシュポンドが3つしか残されておらずワイルペはそのうちのひとつでした。

ワイルペビーチの一軒家は、海沿いに出現した造成地が完成するや否やすぐさま建設されました。現在の消防署がある場所からはかつてその向かい側にフィッシュポンドがあったとを示す名残を見ることができます。100年前は存在すらしなかった高級住宅地ワイルペサークルには、残されたフィッシュポンド名残を除いて非常にモダンな住宅が並んでいます。

ウィルヘルミナライズ

ウィルヘルミナライズは20世紀にはいるまでは存在しえなかった住宅地の典型的な例です。1900年代初頭までの交通手段はもっぱら馬でした。ウィルヘルミナライズのような場所に住んでいては日常生活もままならず、急坂の往来は不可能です。

自動車が普及すると、このような高台にも人々が住めるようになります。1920年代これに乗じて1マイル続く上り坂の建設を手掛けたのは驚くことにマトソンカンパニーでした。ウィルヘルミナライズの一軒家は急坂に建てられましたが、どの都市にも負けない街の眺めを楽しむことができました。

マトソンは建設業界に長く居座ることはありませんでしたか、確かな遺産を残し業界から撤退しました。多くの通りは、ルーライン、マリポーサ、モントレーのように海運会社であるマトソンの船の名前が付けられました。そして何もよりも、メインの大通りとこの地区の名前もマトソンの船の名前ウィルヘルミナと付けられました。

道路が舗装されて以降は広く知られるようになり、急坂を車で上ってみたいという好奇心旺盛な人々を魅了しています。本気の究極のアスリート達が1マイルの坂を競って上ったりもしています。マトソンもこの地区を開発しただけでなく、まさかトレーニングコースも開発するとは思いもよらなかったでしょう。

 

 

 

ホノルルの歴史-28地区 was last modified: 6月 25th, 2018 by Hawaii Living
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