ワイキキホテル群の歴史

モアナホテル(現モアナサーフライダー)は長きにわたってワイキキ初のホテルであると謳ってきました。またそれをホテルの誇りとしてきました。しかし、驚くことなかれ、実は別に先駆者がいたのです!

確かに、電動式エレベーターやスパなどを備えた近代的ラグジュアリーを提供する立派な宿泊施設という意味では、モアナホテルはワイキキ地区で最初のホテルであったことは間違いありません。しかし、モアナが開業する1901年以前に開業した施設がありました。そこでの出来事にも驚かされます。

その施設とはサンスーシーホテルです。現在でもビーチのすぐそばに同じ名前でホテルが建っています。1884年頃ジョージハーバートという男が当時すでに観光産業開発に資金を投じて小さなリゾート開発計画を実現するべくビーチサイドの土地を購入しました。

その前年にカラカウア王がカピオラニパークの競馬場を含むこの地区を社交・娯楽センターに開発しており、ここにある王の邸宅では頻繁にルアウが催され、そこからホノルルに続く道が整備されていたため、道路事情は比較的便利になっていました。

ジョージハーバートの小さなリゾート開発を知る人はあまりいませんでした。彼の計画が全て完成するかしないかのうちに、ギリシャ移民ジョージリュクルゴスという男にこのリゾートをリースします。その後、人々に知れ渡るようになります。

リュクルゴスはこのリゾートを(「憂いのない」という意味の)サンスーシーと名付け、富裕層が数ヵ月にわたり滞在するほどの世界的にも知られたリゾート地に成長させました。ロバートルイススティーブンソンが1893年に2度目のハワイ旅行でここに滞在したことでも有名です。

ワイキキ初のホテル-政財癒着の教訓

ハワイの歴史に詳しい方は、1893年といえばリリウオカラニ女王廃位の年のとして覚えているでしょう。リュクルゴスは廃位後も女王を支援していました。サンスーシーでは当時の臨時政府に対する反乱を計画する王政派の秘密会合が開かれていました。ウィルコックスの反乱に使用された銃はサンスーシーホテルのビーチから運び込まれ、さらにリュクルゴスにより一時的に保管されていたと言われています。

反乱は瞬く間に鎮圧されリュクルゴスは投獄されます。釈放後は、すぐにボルケーノハウスのあるハワイ島に向かいます。ここは彼が力を注いだことで有名です。一方、サンスーシーホテルはリュクルゴスの撤退後まもなくして倒産し、その後5年間はワイキキに宿泊施設がない状態が続きました。

宿泊施設に対する需要が高まる中、そのような状態は長くは続きませんでした。その需要の高さはワイキキのビジネス参入を告げる4階建て75部屋のモアナホテルから見て取ることができます。モアナホテルは1901年に最初の宿泊客を迎えます。美しい海をビーチのあるラグジュアリー宿泊施設でしたが、湿地帯からもそう遠くないところでした。

しかし、ラジオやテレビ以前にハワイのトロピカルな魅力がその力を発揮し、湿地帯がビジネスの痛手になることはありませんでした。モアナの開業は、今日のハワイの礎となるワイキキ観光の始まりとなりました。

とはいえ、ただちに成功したわけではありません。最初のオーナーは利益を上げることができず1903年にホテルを売却します。新オーナーははるかに多くの利益を上げ、1918年には2フロアの増築、両サイドのウイングの建設を行います。来訪者の急増による利益拡大に加え、ワイキキの地理もモアナが市場を独占する理由でした。

モアナからビーチを東側に進んだところに1906年シーサイドホテルが開業します。モアナほど大規模ではなく、ラグジュアリー感もありませんでした。19年という短命のためシーサイドはあまり知られていませんが、その後に有名なホテルが取って代わります。

当時、周辺は湿地帯でした。ホテル建設が可能な地盤の固い土地は限られており、そのほとんどは富裕層が所有していて売却する意思がありませんでした。そのため、ワイキキでは新たに競争に参入することが非常に困難でした。しかし、地盤の固い土地を持つアドバンテージも長くは続きません。まるで湿地の水が蒸発するかのように消滅します。

アドバンテージの消滅は、沼地を地盤の固い不動産へ変貌させた1928年完成のアラワイ運河という形になって現れます。運河はワイキキの東側のみならず西側にも利益をもたらします。現在のヒルトンハワイアンビレッジとその周辺のカリア呼ばれる地区もこの時に形成されます。

記録によると1920年代初頭にはここでクレサッティーズコートとハンメルズコートの2軒の小さな宿泊施設が運営されていました。この2軒以外は記録に残っていません。両施設ともある投資会社に買収され、1928年にニウマルホテルとなりました。西洋スタイルが主流だった当時、外装、内装ともにハワイアンスタイルでまとめられたこのホテルはユニークで、多くの人が親しみをもって懐かしく振り返るホテルです。

ワイキキの商業化により恩恵を受けた企業がもう一社あります。モアナとホノルルシーサイドホテルズを所有するテリトリアルホテルカンパニーです。同社は、さらなる企業成長の新たな可能性として拡張されたワイキキ地区と沼地を悩ませた蚊の駆除に意欲的に投資しました。それはつまり、より魅力的で高級な不動産の建設を意味します。しかしシーサイドの先はそう長くありませんでした。

ピンクパレスの登場

1925年、ホノルルシーサイドホテルは解体され、ワイキキのアイコンとも言えるピンク色のロイヤルハワイアンホテルの建設が始まります。192721日、ホテルの完成とワールドクラスのホテルの登場を祝いグランドオープン祝賀会が開催されました。ダイヤモンドヘッドを自然が創り出したワイキキの象徴をするなら、ロイヤルハワイアンは人が創り出したワイキキの象徴と言えるでしょう。1927年の完成以来、そして今後もそこにあり続ける限り、その称号はロイヤルハワイアンのものです。

アラワイ運河の出現により土地が劇的に変化したにも関わらず、その後20年間は周辺に大きな変化がありませんでした。相変わらず船で訪れるほかに手段がなく費用がかさみ、観光客数も停滞状態でした。そして、周知のとおり1941年に急ブレーキがかかり観光業は完全に静止状態となります。

第二次世界大戦中は、海から侵入を警戒しワイキキビーチに有刺鉄線が張られ、ロイヤルハワイアンは軍人のレクリエーション施設となりました。当時、観光産業がオアフ島の経済活動の中心であったにも関わらず、当然のことながら休業状態でした。1945年の終戦後も元の状態に戻るまで数年はかかりました。実際、復興は1950年代になってからでした。

ワイキキのホテル群-戦後急成長期のはじまり

1950年代はこれまでにないほど観光客数が伸び、毎年記録を更新する勢いでした。航空会社はアメリカ本土からハワイにやって来ることができる機材を持つようになり、やがてアメリカ以外からも多くの観光客を乗せて次々と飛行機が到着しました。さらに、第二次世界大戦中に多くの人がハワイに駐留または通過したことで、ハワイがアメリカ国内で重要な役割を果たす新たな地位を確立し立州化の見通しが強まってきました。

これまでになく急激に増える観光客に対応するため、より大規模な宿泊施設が必要になりました。現在まで数十年にわたりハワイの主要プレイヤーとして君臨するアウトリガーホテルチェーン、その創設一族であるケリー家が初めて運営した100室あるエッジウォーターホテルでは1951年に初めて満室となりました。

エッジウォーターにお目見えしたワイキキ初の大きなプールは、すぐそばに海があることから当初は得策とは思われず、6階建てのエッジウォーターは時代の潮流とはなりませんでした。

高層ビルの流れがやってきたのは1955年のことでした。新たに4軒のホテルがワイキキにオープンしました。そのうちリーフ(現在のアウトリガーリーフとは異なります)、プリンセスカイウラニ、ワイキキビルトモアの3軒は典型的な高層建築でいずれも10階、11階建てでした。

その前の年にはニウマルホテルとその隣にある数エイカーの土地がヘンリーカイザーにより買収されすぐに工事が始まりました。ニウマルが整地された後、19559月に一部工事中でありながらハワイアンビレッジホテルがお披露目されます。その日、宿泊客は敷地内のコテージに滞在し、3つもあるプールに飛び込み、タパルームでの夕食やショーを楽しみました。

2年後、オーシャン(現在のアリイ)が登場します。併設のジオデシックドームではハワイ及び世界中の人気エンターテイメントショーが開催されました。「ビレッジ」という言葉には、レストランやショップ、ナイトライフ、エンターテイメントなどがすべてをビーチ及び海沿いの施設(ビレッジ)内で体験できるというコンセプトが託されていました。観光客は「ビレッジ」を出る必要がないのです。

1950年代に建設ブームが加速した時期は、ワイキキのほとんどは低層建築で、開発が進んでいませんでした。高層建築の機運が高まりを見せてはいるもののスピードに乗り切れていない状況でした。1956年にアラモアナブルバードのハワイアンビレッジ横に登場した中世ティキ様式建築のワイキキアンホテルは、その時代背景を映し出す例と言えるでしょう。

建設後数年間のワイキキアンホテルは、ポリネシアン風合掌造りのロビー棟とその背後にある2階建ての2棟の客室棟が際立つ存在感を持っていました。アラワイ運河を渡りワイキキに向かっていくとすぐワイキキアンが目に留まり、周辺にはその他に注意をひくようなものがありませんでした。しかし、10年の間にその景色は劇的に変化します。ワイキキアンは、まるでNBA選手の中に子供が立っているかのようにタワービルの森に埋もれてしまいます。

1960、70年代-ワイキキの完全都会化

1960年代には、コンドミニアムの建設が始まり、急速に都市化が進みます。ハワイの州鳥construction crane(建設用クレーン)だ、などと冗談を言われ始めるのもこのころでした。(craneには「作業用クレーン」と「鶴」という意味があるため)確かに当時はクレーンが次々とホテルを建てていきました。

ハワイアンビレッジと同様にその隣にも、ワイキキのみならずハワイにもなかったも大規模プロジェクトがはじまります。26階建て、巨大なY字をした3つのウイングからなるイリカイです。1964年に開業したそのホテルはすべてを見渡すようにそびえ立っていました。ハワイ諸島の中では他の何よりも大きく、ハワイ初の高層ラグジュアリーホテルでした。テレビドラマHawaii Five-0のオープニングに登場したことで知名度も上昇し、イリカイは完成から10年以上にわたりワイキキの最高級ホテルのひとつに君臨します。

ヒルトンハワイアンビレッジも負けてはいませんでした。1968年、現在の複合ホテル施設の入り口となるバンガローを備えてレインボータワーがお目見えします。この年にワイキキの観光客は100万人を超え、1969年までにはで客室数が約15,000室になり、その後もさらに増え続けます。

1971年、ロイヤルハワイアンの隣に驚くほどモダンなデザインを施した客室数1,900室を超えるシエラトンワイキキの建設が始まります。大規模物件建設の第一波で市場が成熟するとさらに大きな物件を建設するために古い物件が取り壊されました。1974年にはワイキキビルトモアが解体され、40階建てのタワービルが2棟並ぶハイアットリージェンシーが建設されます。2年後、ワイキキに新たに1,234室の客室が完成します。

80年代&90年代-緩やかな上昇

続く1980年及び90年代には、さらなる新築物件の建設が行われますが、ほとんどの土地にビルが建ち、以前に比べて建設ペースが落ち着いてきます。この時代に建設されたワイキキのホテルは以前に建てられたシェラトンやハイアットのような派手な雰囲気はありません。

日本人の投資ブーム時代には、高級物件が買い占められますが、日本人が開発したほとんどはワイキキ以外の場所でした。90年代に日本経済が崩壊すると世界的に有名なリゾート地ハワイの買収も落ち着きを見せますが、同時に景気にも影響を及ぼします。

それでも、日本人の関心が急激に高まったことで新たに日本人へのサービスに重点がおかれ大きな変化をもたらします。日本語対応スタッフから日本語の看板、メニュー、パンフレットまで、各ホテルは日本人の関心と期待に応えるサービスの向上に注力します。日本からの観光客は、1日当たりの消費額が他国からの観光客よりも多いことから大切にされました。そしてこれは今日も変わらぬ事実です。

このころは、多くの独立したホテルが大手チェーンの傘下に入る統合が行われた時期でもあります。1969年にわずか4軒を所有していた地元企業アウトリガーは1986年には18軒を所有するまでになりました。自社で立ち上げたホテルもありますが、多くの所有ホテルは買収によるものです。戦後のハワイの観光産業はまるでゴールドラッシュのようでワイキキは否応なしに急変していきます。

2000年以降-現状

2008年の経済崩壊から続く低下を除いて、ここ数十年は観光客数も成長を見せています。ただし以前ほどの成長は見られません。その理由のひとつにキャパシティの限界が挙げられます。ワイキキのホテルは一年を通じてほぼ満室状態なのです。

現在は富裕層をターゲットとしたマーケティングにシフトしてきています。小売店業界では、メインストリートのカラカウアアベニューが高級ブランド店の立ち並ぶ通りへと変貌してきていることから見て取れます。ホテル業界に関しては、慢性的な土地不足によりその変化は比較的緩やかと言えるでしょう。それでも、トランプワイキキリッツカールトンレジデンスの人気ぶりは確固たる指標と言えるでしょう。

さらに、裕福で高級志向の常連客向けにサーフライダーを26階建てのタワーにするというオーナー会社キョーヤの計画もあります。プリンセスカイウラニも新たなビル建設を含む大規模改修を計画しています。

ところが、これらの計画には地域の強い反対もあります。特にサーフライダーの計画には、建設業者が高さ制限に対する特例措置を要請していることや、工事によりビーチの浸食を加速させる懸念があるからです。現段階では、市民からの激しい抗議のためキョーヤ構想の未来は未確定のままです。

近年のトレンドは、ベッド、テレビ、バスルームがあるだけの典型的なホテルではなく、かといって高級ホテルでもないユニークな滞在を求める旅行者へのアピールです。このような目の肥えた旅行者を獲得するために、一般的なホテルがブティックホテルに姿を変えてきています。

コーラルリーフは近年、アトミックエイジ風の家具と装飾を取り入れて改装されレイロウホテルとしてリニュアルオープンしました。また、以前のワイキキパークサイドは改装されてアクアパームズとなり、オシャレなの椅子や独創的なアート作品がおかれた部屋、壁にジョンレノンの絵画が飾られ室内のあちらこちらにレトロな雰囲気の布が装飾として使われた「ミュージックスイート」などテーマに沿った部屋などがあります。ユニークホテルはこの2軒だけです。

そして、ここ10年で起きた変化が最も大きな変化でしょう。広く普及したホテルコンドの制度です。ホテルの一室を「所有」し、自身の余暇に利用することができる、または、現在のワイキキ不動産の状況では投資として所有し利益獲得も実現可能なオプションです。ホテルコンド制度は既存のホテルでも採用されていますが、トランプタワーなどは当初からホテルコンド仕様で計画されています。

ホテルコンドへの融資は比較的厳しいにも関わらず、これまでのところ販売にあたり特に問題点は出てきていません。2000年代に入ってから本格的になってきた動向なので問題発覚に至っていないのかもしれませんが、いずれにせよ、ほとんどの所有者が満足しています。

ワイキキのホテル-確実な方策

ワイキキ観光産業はこれまで紆余曲折を経ながら、需要と新たな嗜好に合わせて常に変化してきました。クルーズ船で長期滞在者がやってきた第二次世界大戦前、富裕層のみならず中流階級の観光客も飛行機で訪れるようになり来訪者数が急激に増えたジェット時代、そして高級志向な旅行者や体験重視の観光客に対応する近年の動向など、ワイキキのホテルは彼らのニーズに合わせて舵をとってきました。

その方針は疑う余地なく成功を収めています。そしてこれまで同様、世界中からの訪れる観光客をワクワクさせるような「永遠にロマンティックなハワイ」のイメージを維持することが賢い方策でしょう。

 

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