ワイキキの歴史:農業から不動産まで

不動産という言葉が近代の意味を為す以前、ワイキキの土地は極めて重要な財産だった。オーシャンフロントは王族のために確保されたエリアだということは、非常に明確な事実だった。彼ら先人たちが静養した娯楽とリラクゼーションの場であったビーチとそして冷たい水の上のここが、今日の独占的なリゾート物件となっている。

海岸線から離れた場所は、ネイティブハワイアンたちの農業の場、タロとほかの農作物が何世代も栽培されていた場所だった。

この時期から1848年のグレートマヘレまで、すべての土地は王族によって所有され、ワイキキ、そしてほかのあらゆる場所が彼らの断固とした支配下にあった。個人の所有権、そしてリアルステート(不動産)はオアフ島だけでなくハワイ全域に、わずかマヘレ後に持たらされた。

多くの人が気づかないことには、ワイキキがこの大きな変化を成し遂げる最初のホテルが1837年にオープンしたこと。経営していたのがジョン・ミッチェナーという男性で、ボウリング場がついていたということ以外、ほとんど知る人がいない。寿命は短くほんの数年で、王族から特別な許可を得ていたことは確かな結果である。しばらくの間、これがホテルの終焉だった。

さらに、マヘレ後のはやい時期に、外から土地を買ってビーチまたはその近くに立派な家を建てはじめるのが見られた。それは著名な家族、キャンベル、キャッスル、そしてクレッグホーンのような人々も含まれている。アーチボルド・クレッグホーン、カラカウア王の義兄弟で1877年、カピオラニ公園の創設者のひとりでもある彼が、競馬走路のような楽しみを求めてくる人たちをこの場所に持たらした。

極めて重要なワイキキの変化:アクセス性

コミュニティの拡張、またはリゾート地としての成長でもっとも加速したことは、不動産の開発にとっていつも鍵となる何かがある。1860年代に、政府がついにホノルルからの完全な道路をつくり、往復が非常に楽になった。

この改善点は住宅購入者をさらに持たらし、もっとも大きな影響を与えた出来事として1883年にカピオラニ公園の隣にいくつかの区画が解放され、どちらもすぐにいい価格で売れたことがワイキキ不動産の前例とさえなった。

ツーリストの商売は、1888年についに第二番目のホテルがこの地域に出来てからさほど遠くなく、その翌年からさらに加わり、もっともっと多くのトラベラーたちがここまでやって来るようになった。

全ビジターの創造と、居住地域の間にまだ遠い隔たりがあったことは、今日の私たちも知っている。これは、海岸から離れた土地のほとんどが沼沢地か養殖地だったという事実が要因。

1900年代初期、ネイティブハワイアンたちに代わって中国人農作者たちが米を育てたのが農園システムのなりゆき。かつて、中国人労働者が輸入され、砂糖事業の義務が終わったら、多くがワイキキのように彼ら自身の場所を探し出した。ここの湿地は農作物にとってちょうどいい状態だった。長い間ではないけれども。

新しい不動産の創造とツーリズムの憧れの地

ほかの極めて重要な時期は、すべてを永遠に変えた。ワイキキの大半を覆っていた沼地は、蚊が絶えず問題で、健康と快適さに害を来たしていた。これが、ハワイ経済にとってより重要であったツーリスト商売を制限していた。解決法はいったい何だろう?

政府はアラワイ運河のひな形を思いついた。沼地の排水を掘り出して、蚊の問題を解決すること。それはまた、確固とした土地をつくり出し、その上に開発地を建てることができるにちがいない。この一撃が、ここでの農業を終わらせた。ツーリズムと不動産業が完全に取って代わり、今日の状態が残っている。

土地が奪われて埋め立てられ、運河が完成した1928年に5000スクエアフィートの区分けに分割されて、販売された。私たちが現在知るワイキキの配置は、家ばかりでなくホテルやレストラン、そしてほかのツーリスト向けのビジネスが、発着数が増えたことに対する供給として飛躍的に出現しはじめた。それにしても蚊を排除することができたことは見事だ。

これは開発に流通した常識ではなかった。個人に代わってオーナーのビルディングが彼らの物件としてはじめに、この地域に完全な生活をもたらした。それはこのエリアをさらにもっと魅力的にし、オアフ島の別の場所からいくらかの価格が上昇し、もはや少ない人口と船だけが到達する隔離された場所、という領域ではなかった。 

また近隣のエリアから強制的に分離されてつくられた運河が、新しい自然の境界であるのは真実で、厳しい定義があり、ある独占的でもあり、近隣の人気のある物件の価格を上げる目前だった。

オアフのなかでもワイキキは、さらに建物の密集がこの時期に進行し、後にある種の尊敬が衰えていくであろうホノルルダウンタウンのみが競争相手であった。30年を過ぎたいまだに、低層の近隣世帯が残ったままでいる。

第二次大戦と州設立 – 近代ワイキキをつくり出したふたつのターニングポイント

第3の極めて重要な時期は、戦後と1959年の州設立への変化の組み合わせだ。多くの軍人と女性たちが戦争のつくりだした膨大な口コミを増やし、新しくつくられたマッソン遠洋定期船と航空会社サービスの拡張がその後のバケーションを促した。

そのうちのいくらかは島で生活するためにやってきて、世界とのつながりがより近くたやすくなった。ハワイの噂、とくにワイキキは広く知られるようになった。

最初の高層住宅ビルディングである12階建てのロザレイが、1955年に445カイオルストリートに建てられたのがひとつの結果で、現在もそこにある。

それらの状況は1959年の州設立時になってはじめて加速された。このことはツーリズムの成功の要因となり、ビジターの数を安定させ、同時に州の外から大量の金をもたらした。ハワイのツーリズム産業の宝であるワイキキに、不動産を投資または購入する目的がさらに増えたのだ。

かなり前につくられた組合とはいえ、ハワイ州議会は水平型物件の法令を1961年の議会で、アメリカ社会におけるとても初期のハワイ州コンドミニアム法を通した。

いみじくも、初期のこの法の産物は意義深いものだった。初期のワイキキコンドであるイリカイアパートメントは、空に向かってたやすく威圧するような26階建てのビルは1965年に意気揚々とオープンした。この出来事は、あらゆる場所に瞬く間に生じた大規模な高層ビルの時代の案内係となった。   

高まりとバブル

1960年代と70年代のワイキキ開発の大きな案内係であった最大の証拠は、膨大な大多数のコンドミニアムが当時から今日まで通りに並んでいること。これら20年のあいだに、クヒオアベニューとアラワイ運河のあいだの建物は、シングルファミリーホームや低層の家から現在見られる高層ビルの森へと完全に変貌した。

新しいカカアコ地域の平行線にのみ築き上げられた前代未聞の建築物。このような不動産の需要は、居住者とツーリストマーケットの両方にとても魅力的だと証明された。このとき、日本の投資家たちが1980年代と1990年代初期の大盛況の経済による巨額のキャッシュをもたらした。彼らはできるだけの額を持ってきただけではなく、彼ら自身の新しい構造物を育てた。  

この熱狂的な動きは、内観も外観も’’費用を使わない’ディスプレイで圧倒的なビルディングの、ワイキキランドマークが一番の代表。残念ながら、完成間近で日本のバブルがはじけて、この巨大な高層ビルは数年間空のまま立ちすくみ、資金と完成させる誰かを待つのみだった。 

ワイキキにある大量の物件の崩壊を遅延させ、多くのケースで価値を低めた。それまでに一度もなかった出来事だった。もし起こらなかったら、それでも終わりは来たはず。

過去10年間はトランプビルディングのように、開発の復興が見られた。もっとも最近、リッツカールトンレジデンスがクヒオアベニューにそのドアを開き、新しい高級感のレベルを上げると同時にこの近隣の地価を上げたように見られる。まもなく、キングスビレッジの敷地に計画されたコンドミニアムが、サーフライダーとプリンセスカイウラニホテルの再開発としてやってくる。

新しいインターナショナルマーケットプレイスが 第一の高級ブランドストアとハイヤーエンド小売店を特徴に残りのカラカウアアベニューの店に新しく加わって、持ちこたえていた中小企業に終わりを持たらした。黄金通りのこの通りは、ロデオドライブとよくくらべられ、ホテルの正面に多くのデザイナーショップと流行に敏感な店をオファーしている。 

この時代の流れは以前よりももっと独占的な雰囲気がポイントで、ワイキキの家とビジネス両方の価値を高めていく出来事だ。この価値ある不動産は不可欠で、魅力的でしかも限定されている。この方向は疑いなく、そして今後もずっとその方向へ向かう。

王国の時代から今までの不動産の進化をたどると、これらの物件は当初から際立った際立った特色があるのは明確だ。王族が、くらべることができない自然の美しさをもつこれら海側の土地にとても感謝していたのは当然で、だからこそ彼らはその土地を自分たちの娯楽として保有していた。今日、このパラダイスの一部を所有することに何の法律も、防止することもない。ただ高い値段がついているだけ。

 

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